京都 四条高倉の占庭から

大きな選択のときの決まりごと

突然、真夏がやってきまして、容赦ない暑さになりました。

みなさま、体調を崩されたりしていませんか?

新型コロナの感染もまさに「爆発」していて、

いざというときに救急医療にかかれないかもしれない状況なので、

とにかく病気にもケガにもじゅうぶん気をつけて過ごさないと、ですね。

 

京都は7月は一日からずうっと祇園祭のひと月なのですが、

そろそろ終わりを迎えます。

先日の後祭の山鉾巡行を夫が初めて見て、感激していました。

間近で車輪がギシギシ音をたてながら進んでいくのを見ると、

涼しい部屋にいながらテレビで見るのとはまったく別物だと感じられたようで。

そうなんです。一見の価値は大いにあるんですよね。

暑さはこれからが本番ですが、日の出の時刻もだんだんと遅くなっていて、

祇園祭が終わってしばらくすれば五山の送り火ですしね。

秋へと季節が移ろっていくのを感じます。めちゃくちゃ暑い中でも。

 

さて、みなさん、人生で大事な選択をするとき、決まりごとなどありますか?

わたしは若い頃から、分かれ道に立ったとき、

「こっちを選んで後悔しない?」

と自分に問いかけてきました。

「思い切ってやってみればよかった」「あんなことしなければよかった」

と、どちらの後悔も選択にはついてまわるものですが、

 

 たとえうまくいかなかったとしても後悔しない

 

と後々思えるように、後悔しない? と自分に訊いてきたわけです。

もちろん、そうは言うても、あの時ああしていれば、、、、と思うことはあります。

だけど、

 

 それでもその時、自分なりに考えて選んだことだから

 

と思うようにしています。

幸い、悔んでも悔やみきれない、というほどの後悔はいまのところありません。

 

ところがふと気づいたんですよ。

わたしはずっと「それで後悔しない?」と自分に訊いて決めてきたけれど、

「ほんとうはどうしたいの?」となぜ訊いてこなかったのかな、って。

後悔しない、と決めることは覚悟を決めることなんですよね。

どうなってもこの選択を悔いないように、と。

だけど、自分はどうしたいと思っているのかは、もっと自分の本心に向き合う、

ってことではないのかなあ、と。

もしかしたらわたしは自分の本心にちゃんと向き合ってこなかったのかもしれない、

と思ったら、「後悔しない」決断の陰に、数多の我慢やあきらめが、

累々と埋もれていたことにも気がつきました。

我慢は苦手だけど、あきらめるのは得意なんですよねぇ、わたし。

そういうことの繰り返しの末に、いまの自分があるんだなあと、

なんだかとっても納得してしまいました。

 

ちゃんと向き合わない、と書いてしまってから、

それじゃあわたしは、いろんなことから目を逸らして、

本心をごまかしながら生きてきたのか、と自問してみましたが、

そういうわけでもないんですよねぇ。

なぜ、ほんとうはどうしたいのか? よりも、それで後悔しない? のほうを

優先して考えてきたのか、とつらつら振り返ってみての結論は、

たぶんそれは単にわたしが「後悔する」「後悔しながら生きていく」

ということがすごく苦手だから、なんじゃないかな、と。

とにかくそれを避けたい一心からのことだったんでしょうね。

 

誰しも得手不得手があり、選択基準や個人個人の倫理基準なども、

千差万別だろうと思います。

Aさんにとっての正解が、Bさんにとっても当てはまるとは言えませんよね。

自分が成功した向き合い方を他人にも激推しする人をたまに見かけますが、

必ずしもそれが成功するとは限りません。

今回、いろいろと考えてみましたが、やっぱりわたしはこれからも

それで後悔しない? と訊きながら、決めていくのだろうなと思いました。

ですが、ほんとうはどうしたいの? も、プラスして考えるようにしてみます。

年とともにどんどん頑なになっていきますからねー

頭もこころもやわらかいほうが、強くてやさしい。

もっともっとちゃんと考えて、その上でやわらかくありたいです。