京都 四条高倉の占庭から

自分のために生きたいか 誰かのために生きたいか

今月は猛暑と突然の雷雨の連続で、消耗している内にもうすぐ月末です。

この暑さのなか、占庭はにお客さまがたくさんおいでくださって、

8月は忙しくさせていただきました。

下旬になり、急に静かになったもので、

 はあぁ、夏も終わりなのねー、、、 

という気持ちになっています。

 

明後日27(土)は、勝手ながら臨時休業いたします。

日曜日は通常営業いたしますので、よろしくお願いします。

 

今月はご夫婦でおいでくださる方が多い月でした。

たまたま中年で、リピーターの方ばかりでしたが、なんだか遠い親戚みたいでね。

ご家庭内のこと、お仕事のことなど、いろいろお聴きしてますから、

あの話はその後どうなりましたか? みたいなお話ができます。

占いを仕事にするまでは、占い師とゲストがそういう関係になるというのは

想像できませんでした。

これは占い師という仕事の、予想外だったたのしいことのひとつです。

仕事にたのしさやおもしろさが見つけられるのは、ほんとうにしあわせですね。

 

最近、お客さまの話をお聴きしていてよく思うのは、

自分がしたいことをして生きたい人と誰かのために生きたい人がおられるなあ、

ということ。

これは男性だから、女性だから、ということはないですし、

そう選んで生きてらっしゃるというのでもなく、そのように生きるのが自然で、

そういう生き方しかできない、というのに近いような気がします。

どちらも自分の人生を生きているということには違いはありません。

ただ、

 自分のしたいことをあきらめたくない、挑戦したい、

というお気持ちが強い人と、

 自分の大切な誰かのために力になりたい、支えたい、

という思いが基本になっている人があるということですね。

 

双方の意見がすれ違ったときなど、そのベースの違いを理解していないと、

自分の思いばかりを優先してワガママだ、と捉えられたり、

自分はどうしたいのかハッキリしないのはずるい、となじられたりすることも

あるのだと思います。

どちらが生きやすい、生きづらいということもないと思うんですよね。

自分の生きたい生き方をまっとうできるのが一番ですが、

そうできないことだってあります。

というか、よくあるのだと思います。

特に、男性だからとか、女性だからとか、親だからとか、子だからとか、

一般的な役割や記号で、その生き方を歪められるのは不幸です。

望まない生き方を強いられるのはなおのこと。

 

わたしはといいますと、典型的な誰かのために生きたいタイプなので、

どうしたいのか? 何を求めているのか? 

と問われると非常に困惑してしまいます。

もちろん自我がないわけではないし、望みも欲もあります。

あるのですが、たぶんどちらも薄いのだろうなとは思います。

振り返ると、幼い頃から、ずっと誰かに応えるために生きてきたような気がします。

それで、ずっと覇気がない、とか言われてましたね。

だけど、それをわたしは恥じてはいませんよ。

わたしはわたしだし、誰かは誰かなんです。

人によって、自負自尊のよりどころは違います。

そこを尊重する、理解する、ということは、人間関係をつくっていく上で

とても大事なのではないかなと思っています。

占いで、友だちでもない、家族でもない、初めて会った人といろんな話をし、

お聴きしていて、気をつけているポイントでもあります。