先日、ついに見ましたよ。海外からの団体観光客。
ガイドさんが目印を掲げながら、錦市場へと行列で入って行かはりました。
はぁーーーー ほんま、これどれくらい振り?
とはるか彼方を望むような気持ちになりましたが、
そこはかとなく呆気なさも感じました。
あ、こうして戻るときはサクっと戻るんやな、という感慨といいますか。
ついにインバウンド復活ですかあ。
しかしながら西洋から来られたとおぼしき方々は、マスクを着け、
くたびれてはるように見えました。
きっとお国ではもうマスク生活はされてないだろうし、
なんで? というお気持ちだろうとお察しします。
がしかし、です。
規制が緩和され、いの一番(て、最近言いませんね)に日本へいらしたであろう
海外のみなさん!
円安ですしね。
気前よくお買い物され、エエもんを食べて楽しんでいってくださいね~
と後姿を見送りました。
占庭のタロット占い教室は、マンツーマンレッスンなので、
通い方、進捗スピード、余談の量など、おひとりおひとり違います。
ぎゅっと詰めて、できるだけ短期間に要点だけで、という方もあれば、
時間をかけてゆっくり学びたい。
直接関係ないけれど、知っておくとおもしろい背景や余談もぜひ、
という方もおられます。
そのなかに、数か月ごとに遠方から用事で京都へ来られるついでに、
数か月飛び飛びにレッスンを受けてくださっている年配の生徒さんがおられまして。
その方が、
「ここへ来る前におもしろいところへ寄ってきました。
『鉄輪の井』をご存知ですか?」
と話されて。
名前は聞いたことがある程度で、どのあたりにある、どういう謂れのところかは
まったく知りません、と答えると、
「ここから遠くないので、ぜひ一度行ってみてください。
すごいところでした。いやあ京都はおもしろいですね」
とおっしゃるので、それじゃその内に、と思っている内に夏がやってきてしまい、
ちょっと涼しくなってからにしよう、、、、と先延ばしにしていました。
で、数日前にやっと行ってきました。
場所をネットで確かめていると、そこを訪れた人が写真を上げてらして、
” 民家へ入っていくような感じで緊張する ” と書いてあったので、
これはだいぶわかりにくいところなんだろうなあ、たどり着けないかも、
と半分あきらめモードで通りを確認しながら歩いていると、ありました!
民家へと続く狭い路地の入口に引き戸がありまして、そこを入っていきます。
「お参りはコチラへ」的な表示はないので、
ほんまに入ってもいいのかなー
ベル鳴らしてご挨拶した方がええかな。いやそれもいちいちだと迷惑やろ。
とか考えながら恐る恐るそ~っと引き戸を開けました。
ふつうの住宅の玄関の目と鼻の先に、その小さなお社はありました。
京都は辻々に小さなお地蔵さんがたくさん祀ってあるのですが、
そのお地蔵さんと変わらない大きさです。
「鉄輪の伝説」の由来を書いた紙が置かれていて、一枚いただいてきたので、
少し紹介しますね。
むかし、火鉢や囲炉裏に置いて、鍋や薬罐をかける三本足の五徳のことを、鉄輪とよんでいました。能にも『鉄輪』(伝・世阿弥作)の謡曲があります。下京に住む女が、自分を捨てて後妻をめとったことを恨み、貴船神社に、丑刻詣(うしのこくまいり)をしていますと、鉄輪を頭にのせ、三本足に火をともし、怒りの心をかきたてると、鬼になれると、お告げがありました。夫は、それ以来、悪夢に苦しみ、安倍晴明に占ってもらうと、今夜、命を失うということです。それで、調伏の祈祷をうけていると、女の鬼が現われ、夫をつれていこうとしますが、三十番神(さんじゅうばんじん)に追われ、苦しみながら去っていきます。
多くの文学や歌曲などに、影響を与えてきたのも、この鍛治屋町の「鉄輪の井(かなわのい)」です。この鉄輪の女が、安倍晴明に調伏され、ついに、この鉄輪の井あたりで息が絶えてしまったと言いつたえられています。それで、鉄輪とともに霊をとむらい、「鉄輪塚」を築いたもののようです。
こういう由来から「縁切井戸」としても有名になり、ここの井戸水を飲ませると、
相手との縁が切れると、遠方からも水を汲みにくる人が多かったのだとか。
この町の南にある本塩釜町にあったとされる六条御息所邸の生霊、
北にある夕顔町など『源氏物語』の影響もあったのでは、ということです。
わたしは北から歩いて行ったので、途中で夕顔の碑のところを通りました。
京都には歴史上の人物にまつわる碑がたくさんありますが、
物語の登場人物の碑ってねぇ。
鉄輪伝説の元になった女性も、六条御息所も、夕顔も、みんな哀しい。
そう思うからか、その小さな社には女性の切なくつらくかなしい思いが
祀られているようで、しんみりした気持ちになりました。
縁切りで有名なところだそうですが、どうぞ安らかに、
という思いで手を合わせてきました。
(そういう場所なのでとても写真を撮る気持ちにはならなかったので、写真はありません。)
生徒さんに勧められなければ、別に縁を切りたい人がいるわけじゃないですし、
お詣りすることはありませんでした。
これもご縁というものなのでしょうね。