京都 四条高倉の占庭から

人たらしとは

わたしはローズマリーの香りが好きで、ベランダでたくさん育てています。

(というか、どんどん増えていく)

我が家のローズマリーは、なぜかとても寒い時季と、とても暑い時季に開花します。

いまもこの酷暑のなか、薄紫の愛らしい花を咲かせています。

見かけを裏切る実にタフなやつです。

うん、そういうところも好き。

 

今日は、最近、朝ドラを見ててふと思ったことを。

職場や、学校など小さなコミュニティのなかで、人間関係をつくっていくとき、

「これってイヤだよね」を共有することから仲よくなっていこうとする人と、

「これおもしろいね」の共有からつながっていく人がいるなあ、ということです。

 

たとえば、職場の上司が厄介な人だった場合、

 何あれ。信じられない。ひどいよね~

といった共通の認識から、ほんとほんとと共感し、距離が近くなる。

なんてことはよくあることです。

他の人も同じように思っているということがわかり、ほっとしたり、

一緒にガス抜きができたりするのは悪いことではないと思うんですよ。

愚痴をこぼせる誰かの存在はとてもありがたいですよね。

だけど、それがクセになり、日常になってしまうと、

「いっつも誰かの悪口を言っている人」と認識されてしまい、

「あの人は陰ではわたしのことも悪く言ってるのかもしれない…」

と思われて、結局は心を許し合える関係性にはなれません。

一緒に誰かの悪いところをあげつらうというのは楽しいことでもあるけれど、

そればっかりの人は、素敵とは思われませんもんね。

 

わたしはTwitterとかの(あ、もう✕って言わないとダメなのかな)

「#〇〇反省会」というタグが苦手です。

あれはただ悪口を言っているのではなく、正しい批判だ、

という意見もあるでしょう。

そう。批判は悪いことではありません。

わたしはその批判が苦手なのではなく、それらがどんどんエスカレートしていくのが

しんどい。

正しい批判であるならば、どんなにひどく相手を否定してもOKみたいな感じが。

舌鋒鋭ければ鋭いだけ、毒舌ならば毒舌なだけ、それは

「みんなの本音を代弁しているのだ」というムードがあったりするのも苦手。

あれって、胸がすくのかなあ。

ボッコボコに個人攻撃しまくっているという自覚はきっとないのでしょう。

そういう世界とは関わりたくないし触れたくもないし、なにより怖すぎるので

できるだけ避けて通るようにしています。

 

反対に、楽しいやおもしろい、好きを共有しながらつながっていく人は、

その感性が似通っていないとつながれないところはありますが、

その分、つながり方にムリがない。

それぞれの楽しいやおもしろいがあることをわかっているので、

そこを尊重することができます。

同じ部分を好きじゃなくても、それはそれでいいし、というゆるみもある。

もちろん人とモメることはまずありません。

こういう人が職場に一人でも居ると、ピリピリしたムードになりにくくなります。

特別なことをしているわけではないんだけれど、円満なムードをかもし出せる人、

ってたまにおられますよね。

それはひとつの才能で、仕事がすんごくデキる人よりも得難い存在なのではないか、

とすら思えます。

 

朝ドラを見てて思ったのは、よく言われる「人たらし」とされる人は、

「たのしい」や「おもしろい」や「好き」を周りに伝染させ、ワクワクさせる、

そんな力を持っている人なんじゃないかなってことでした。

その人が居るだけで、なんかこっちまで楽しくなっちゃう、みたいなね。

それこそそれはすごい才能です。

日々、たのしいことをたのしむ、おもしろいことをおもしろがる、

好きなものは好き! と思って暮らしていくことは、自分にとっても周りにとっても

よい作用しかないんじゃないか、と思えてきます。

人たらしまでの才能はなくても、たのしいやおもしろいとともに生きる、

それならばできそうだなと思ったのでありますよ。