京都 四条高倉の占庭から

傀儡

先日、四苦八苦は仏教用語だということを書いたんですが、

小説で、そういうテーマに挑んだ異色作品がありました。

 

坂東眞砂子さんは、角川ホラー文庫あたりから、一気に有名になった方ですが、

土着っぽい、おどろおどろしい作風ばかりではなく(でもそれがとてもおもしろい)、

多様なジャンルの作品を残されています。

もっと長生きしていただきたかったです

 

『傀儡(くぐつ)』坂東眞砂子 

 

クグツでは漢字変換せず、カイライと入れたら変換しました。 

うーーーむ、なるほど。 

 

時は、鎌倉。 

仏教とは?念仏とは?禅とは?生きるとは?性とは?権力とは?怨みとは? 

 

いろいろな問いに挑んだ重い作品でした。 

予定調和や、ごまかしのない、甘さも救いもない小説です。 

でもだからこそ、胸の奥がしんとしながらも揺すぶられるのでしょう。 

 

そう、人生に楽勝な救いなんてあるもんですか。 

でも、生を受けたからには生きていかなければなりません。 

死にたくないと思ったって、いつかは誰もがみんな死んでいくんですから、

それまでは生きつづけなければならないんです。 

宗教や、権力に救われることもないのです。 

けれども、宗教には意味がある。 

ただやみくもに信じるだけではだめなのです。 

そこから自分で真理を得ようとしなければ。 

 

ほんとうに、宗教を伝えていくというのは難しいのだな、とも思いました。 

人間は弱いですしね、みんなバラバラで自分勝手ですもん。 

なにか方便もなければ、まとめていくことは至難の業です。 

宗教でも、政治でも、小さなコミュニティでも。 

 

傀儡というのは、土地から土地へと流れていく芸能集団です。 

謡や、人形遣いや、奇術などですね。 

踊りは白拍子の方が、本職らしいです。(静御前とかね) 

土地を耕し、山や畑とともに根を張って生きようとする民もあれば、

傀儡のように故郷すら定かでない民もいます。 

倫理も全く異なる生き方です。 

わたしは傀儡のような生き方にシンパシーを感じるし、惹かれるけれども、

それでも家族などの絆を軽んじるのは違うな、と思ったり。 

それでも明日の命が知れなかろうが、できるだけ自分に正直に生を愉しむ

傀儡の生き方はいいなと思います。 

身分はものすごく低くても。 

 

この作品をお書きになるのは、大層しんどかったと思います。 

デビュー時からずっと読んでいますが、作家を続けていくというのは

苦しいものなのだろうな。 

子どもの頃は作家に憧れたりもしたけれど、こういう作品を読むと、

絶対無理っ!ってことを思い知らされますね。 

わたしには、今の生き方が、いっぱいいっぱい。 

こうして毎日そこそこマトモに暮らしているだけでも、上出来というもんだ、

と思うことにしよう。

(2008/9/18)