京都 四条高倉の占庭から

親ガチャ

今朝は少し早起きをしたので、お店に来る前に知恩院さんにお参りしてきました。

八坂さんにも足を延ばし、家内安全と世界平和をお祈りしてきました。

前回、引けなかったおみくじを引いたら「吉」。

よいことが書いてあり、ちょっとこころが明るくなりました。

2年前に新型コロナで世界中がひっくり返り、不安や恐れ、外出自粛など、

生まれてこの方、なかった事態に陥ったとき、

「たいへんだけど戦争よりはマシ」

とよく思っていたのですが、それも平和だから思えたことなんだなあ、と

「平和」のありがたみを痛感しています。

なんとか少しでもいい形で、少しでも早い停戦を願うばかりです。

 

さて、最近、よく聞く「親ガチャ」という言葉。

意味は、

親ガチャ(おやガチャ)とは、日本のインターネットスラング。 生まれもった容姿や頭脳、運動神経などの能力、生まれた家庭環境によって人生が大きく左右されるという認識に立ち、「生まれてくる子供はどんなかを選べない」ことを、レアアイテムやレアキャラが登場する確率は非常に低いスマホゲームの「ガチャ」 に例えている。

Wikipediaにありました。

わたしはこの「ガチャ」のこと、スマホゲームの例えだとは知らなくて、

ゲームセンターなどにある、何が出てくるかわからない、

カプセルトイの「ガチャガチャ」だと思い込んでいました。

この時点で、もう時代からズレていますね。

 

どの親のもとに生まれてくるかで、ある程度決まってしまう、

というのはほんとうだと思います。

「親ガチャ」と言われて、ああ、すまないなあ、と感じる親も多いと思うのですが、

それでも、親にも親がいるわけで、親は選べないがしょうがない、

とどこかで納得してしまうところもあります。

しかしまあ、子どもが親を選べないように、親も子どもを選べないんですよねぇ。

そういう場合「子ガチャ」ってことになるんでしょうかね。

だけど、親から「子ガチャ」なんて言われたら、すごく傷つくんじゃないかなあ。

なんとなく「もっといい子がほしかった」と言われてるみたいな気になりそう。

「親ガチャ」と言われて傷つく親もいるに違いないですけど、

「子ガチャ」と言われるほうがうんとつらいなあ。

 

あ、そういえば中学3年の始業式の日、担任の先生が、

「『うわあ、今年の担任はこいつかーーーー』と思ってるかもしれんが、

 それはこっちだって似たようなもんで、お互いさまだ(笑)」

と正直な発言をかましたことがあったっけ。

あれは衝撃だったけど、この先生は信用してもよさそう、とも思えたのよね。

なんて、とりとめのないことを今朝、ぼーーーっと考えていました。

 

親も子もいる自分自身を顧みると、

 ああ、この親でなければこんなしんどいことはなかったのに

と思ったことは何度もありました。

我が子もわたしを見てそう思ったこと、きっとあったんだろうなあ。

だけど、ガチャだし、と思ってあきらめてくれただろうか。

 

しかし、ありがたいことに、子どもに関しては、

 この子でなければ、、、、

と思ったことは一度もありません。

もちろん子育ての間には、そりゃあいろんなことはありましたよ。

それでも、こんなおもしろい子が生まれてきてくれて超ラッキーだった、

という思いしかありません。

 

しかし、親ガチャって、なんだか切ない言葉ですよねぇ。

いつの世の中でもある話なんですけど、妙に端的に的を射ていて、

聞くたび、目に入るたびに、うー、、、、となってしまうのです。