京都 四条高倉の占庭から

「すごい」を目指さなくても

自宅のトイレに掛けているカレンダーは、毎年rockin'onのふろくのものなのですが、今月はリアム・ギャラガーなんですね。

その横顔を毎日見ながら、

 似ている人を知っている、、、、知っているのに思い出せない、、、、

とずっと悶々としていたのですが、月末になってやっと、

 あの人!

と思い至りました。思わず膝をピシャリと叩いてしまいましたよ。

占庭に長く来てくださっている女性の方でした。

もうね、だいぶスッキリしました。

鼻から下の部分がとてもよく似ておられるのです。

 

この方は占いがとてもお好きで、いろんなところへ行ってらっしゃいます。

占い好きな人というのは、いろいろな占い方で観てもらいたいし、違う占い師の話も聞きたくなるものです。

わたしもそうなのでよくわかります。

そして、慣れている人は使い分けもされます。

こういう話はこの占い師のところへとか、そのときの気分で、

「ハッキリ強く断言する系」か「やさしく励ます系」か、

というあたりで、占い師を選ばれたりするわけですね。

占いや占い師に詳しい人というのは、わたしがすごい占い師でもなんでもない、

ということをわかっておられます。

それなのになぜ長年通ってくださっているのか。不思議です。

不思議であり、ありがたいです。

そこで考えたのですけれどね、もしかしたらこれは他の仕事にも通じるところがあるのかもしれませんが、すごい人でないとダメ、ってことばかりでもないのではないか、と思うのです。

それぞれに良さがあるとか、良さとまでいかずとも、好もしいと感じる個性があれば、そこで選んでもらえるってこともあるんじゃないですかね。

相性とか、フィーリングとかそういうところで。(フィーリングって最近聞きませんね。わかりますかね、お若い人。)

もちろんすごい人はすごい人気があったりするわけですが、みんながみんな「すごい人」にはなれないし、また、なれなくてもいいんじゃないかと思うんですよね。

だいたい、世の中、すごい人ばっかりだったら、却って成り立ちませんよ、きっと。

自分なりに努力しながら誠実にやっていれば、わかってくれる人はわかってくださるし、ご縁があれば自然につながっていくような気がします。

がんばることは大切だけど、がんばり過ぎたらどこかが壊れますでしょ。

もっと上を目指すのはいいことだけれど、もっともっと上を、とずーっと上ばっかり見てたら首がおかしくなってしまうじゃないですか。

いまをちゃんと見て、自分で自分を正当に評価することも大事だと思うんですよ。

自分を叱咤激励し続け、上を目指して、これじゃダメだ、まだがんばれるはず、と追い詰めたらまずいでしょう。そんなのムリですってば。

すごくはないけど、そこそこいいところもある、と思いながら生きてるほうが折れにくいし、結局長い目で見たらいいトコまで行けそうな気がします。

 

なーんて、がんばりの足りない自分を擁護してるだけかもしれませんけれどね。はっはっは。

いいんです!(と自らを肯定し 笑) わたしは残りの人生もこのスタンスで、できるだけたのしそうに生きていくことにしまーす。