京都 四条高倉の占庭から

勝手に占われたくない

梅雨の晴れ間。

気持ちのよい日曜日です。

今朝、車を降りて歩いていたら、周りのひとたちにジロジロ見られる。

え、なんだろか? どこかヘン? と思ったら、マスクを着けていませんでした。

ああ、そかそか、とバッグの中から予備のマスクを出して装着。

うっかり忘れること以外にも、耳ひもが取れちゃうこともあったりするので、

予備のマスクは必須なんですよねぇ。

こんな日常が、まだしばらくは続くのでしょうね。

 

TVで占いの番組が人気という影響もあると思うのですが、

タロットを習いたい、いずれは占いを副業にしたい、という方が増えました。

タロット占いは、たくさんの人を占い、結果を伝えていくことで、

リーディングの技量が上がっていきます。

できれば身近な人に直接占わせてもらえるといいのですが、

その際のマナーも大事だなと思います。

 

以前、仲のいい占い師さんと話していて、ちょっと驚いたことがありました。

占い師同士で占いっこすることはよくあるのですが、これがたのしい。

実にたのしいのです。

なので、気軽にちょっと観てみる、ってことを何気なくしてしまいがち。

占い師も用いる占術が違えば、いまの運勢をどう観るのかも違ってくるし、

そこの興味はどの占い師ももっていると思います。

ですが、だからといって、求めていないときに、

「ちょっといまのあなたを占ってみたらこうだったよ」

と突然言われるのは不快なことだってある、ということなんです。

その占い師さんは、知り合いの占い師の人が、お祝いのつもりで占ってくれた、

というのはよくわかっているけれど、

その時、なんだかすごくイヤな気持ちになったのだ、と話してらっしゃいました。

 

わたしは善意で占われてイヤな気持ちになったことがなかったので、

そんなこともあるのか~ とちょっとショックでした。

いやしかし、わたしは、いわゆる ”サプライズ” が苦手で、

そういうの困ってしまうわー といつも思っているので、

それに似たようなところもあるのかなと、反省しました。

いくら無料であっても、それは押し売りと同じなのかもしれず、

よく言われる、善意の押し売りそのものだったなあ、と。

 

思えば卒業し、就職していく学生さんたちに、たくさんお祝い占いをしてきました。

あれもなあ、別にうれしくないんだけど、、、、と思った人もあったかも。

はなむけの気持ちでのプレゼント占いではあったのですが、

これからは「占いましょか?」と尋ねてからにしようと思います。

手相占いもいろいろ

最近、同じ占い師の方が書かれてた手相入門の本を続けて読みました。

手相占いの本は、それはもうたくさん出版されているのですが、

線や丘、印などの解釈が、すべて統一されているわけではありません。

もちろん、表現の仕方もそれぞれなので、

たしかにそういうニュアンスはあるけど、それだけじゃないよね?

と感じることもよくあります。

キャッチ―な表現をしたほうが親しみをもたれるというのもあるし、

単にウケるから、ということもあるのかもしれません。

 

わたしは手相については師について学んだのではなくて、

いろんな占い師の方が書かれた本を読んで、そのなかで、

説明がわかりやすく、内容がしっくりきて、そうそう! と思えた方の本を

基本の教科書のようにし、あとは実践を重ね、経験と併せて、

いまのスタイルに落ち着きました。

いろいろ読んで、観て、納得できたところが、ここ、というわけです。

なので、また別の方の本を一から読んでみるのは敬遠していたのですが、

ひょんなことで知り合った卯野たまごさんの手相の本も楽しく勉強になったので、

やっぱりもっと読んでみよう、と思うようになりました。

そして、この占い師さんの本を読んでみたい! と思える方が見つかり、

2冊続けて読んでみたのです。

そして、自分の不勉強を恥じることになりました。

わたし、手相が西洋から東洋へ伝わってきたとか、知らなかったんですよ。

なんとなくで、東洋のものと思い込んでいました。

知らないというのは、恥ずかしいことだなあ、といまさら痛感いたしました。

ほんとにお恥ずかしいです。

 

それでもですね、昔、まだ手相がよくわからないままに読んでいた頃とは、

やっぱり全然違うんですよね。

「わかる」ところは実践を通してわかったものと一致しているということ。

また、「違和感がある」と感じる部分については、

「わたしは違う解釈を採りたい」と考えられること。

自分なりにわかっているものとすり合わせながら、理解しようとすることで

深く読めるんだなあと感じました。

 

その上で、手相の観方もいろいろあり、ゲストへの伝え方はもっとさまざまである、

ということを納得できました。

自分のスタイルを維持していくことは大切だけれど、

へんにブレたくないという気持ちからのこだわりになってしまってはダメですね。

アップデートしていく意識も持っておかないと、と思ったのでありました。

やっぱり勉強は大事。当たり前のことですけれど。

 

さて、今朝は雨も上がったので、知恩院さんにお参りしてきました。

たっぷりと水気を含んだ植物が、みな生き生きとしていて緑の美しいこと。

参拝者は少なく、とても静かで、御影堂から素晴らしい読経の声が響きます。

いまの時季、青もみじのなかに淡紅色のプロペラを見つけるとうれしくなります。

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おおお、我ながら、なんとわかりにくい写真でしょうか。

(それでもないよりはマシか、と思って貼りつけました・・・)

 

そして初夏といえば、松。

重厚感があり、浮ついた感じのしない植物ですが、この時季は違います。

びゅうびゅうと野放図に伸びていくめばなの勢い、

おばなのはちきれんばかりのエネルギーに圧倒されます。

侘び寂び? はあ? 関係ねーし。

とばかりに季節を謳歌しているように思えて、気分が晴れるんですよ。

(さあまた貼りますよ)

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説得力のない写真で申し訳ないのですが、実物はもっと元気いっぱいです。

 

そして、ダメ押しのように、わかりにくい写真をもうひとつ。

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アメンボ、見えますか?

これね、白黒写真じゃないんですよ。

なんというか、蚊ともアリとも見えますよねぇ。

iPadを持参すべきでした。

ま、お天気もイマイチだったし、ということにして。ははは。

正義は難しいです

今年は記録的に早い梅雨入りで、正直にここのところ雨が続いています。

こんなに早く梅雨に入ったら、あっという間に夏やん、

すぐに台風がやってくるやん、

と思ったのですが、梅雨明けは平年並みという予報なのですね。

そうであれば長雨が心配になってきます。

どうか災害が起きませんように。

そして、農作物がちゃんと育ちますように。

 

先日「ドローンで屋根点検」というチラシが入っていまして、

なるほど~ と唸りました。

高齢者へ向けてのワクチン接種の予約をネットでせよ、

という時代だけのことはありますね。

 

占いのお店をしていますと、通常の生活上では接点がないはずの方と知り合います。

いろんな職業の方の仕事のお話や、とても裕福な暮らしをされている方のお話も

お聴きします。

知らない世界を垣間見て、へぇ~~~~ そんなことが、

と興味関心を満たされることもあれば、

勉強になったり、考えさせられることもたくさんあります。

それで、いつも「人それぞれだなあ」というところに帰着します。

 

頭では、人はみんなそれぞれの思いがあり、考えがある、

とわかっているつもりでいるのですが、それらを予想外な形で提示されると

動揺して、言葉に詰まる場合もあります。

それはちょっと受け容れにくいな、というお考えであったとしても、

即座に否定することはできないので、ひとまず心の中にある、

 

 そうかあ。そんな考えもあるのかあ。

 

という引き出しに入れることにします。

もちろん、時には、

いやいやいや、それはあかんでしょ、いくらなんでも、、、、

と言いそうになる場合もあるのですが、

自分の「良心」や「正義」と占いを混ぜてしまうことはご法度ですし、

占い師が断罪するなんてことはおこがましすぎますしね。

けれども、そういう場合、やっぱり肯定するわけにもいかず、

 

 そうですか。あなたのお考えはそうなのですね。

 

というところで立ち止まるしかない。

それが正しいとか、間違っているとかは言う立場にないし、

伝える必要もないと思っています。

ゲストは占い師に常識的なことを言われたり、ましてやお説教されたいなんて

求めてらっしゃらないはずです。

こちらは見料を頂戴してお話ししているわけですし。

ですので、わたしは「占い的にはこうですね」というお話をします。

タロットカードを引いたなら、出てきたカードそのままの意味を伝えます。

ゲストの気持ちを正すような脚色を加えることはしません。

占い師の良心において。

なんていうとカッコつけすぎかもしれませんが、ギリギリ正直でいたい、

ってだけのことでもあります。

もちろん、話の延長線で、わたしの個人的な意見を尋ねられた場合は、

誠意をもって思うところをお話しします。

 

でもね、それでお気持ちを変えられる人は、このままではマズイだろう、

ってことをもうよくわかってらっしゃる方なんです。

占いのお客さまに限らず、大半の人は、自分の考えを信じたいし、

肯定してもらいたいと思っていますよね。

それが無体なことであったなら、膨大な言い訳を考えたり、

周りの誰彼の同意をかき集めねばなりません。

そうすると、どんどん視野が狭まり、排他的になっていきます。

結果、諭してくれる人も失い、いつの間にか孤立無援になっていた、

なんてことはよくあることです。

 

「これはマズイかも」と思ったときに、立ち止まったり、違う考えも容れてみる、

ということが、人の器とか品格につながっていくんだなあ、

と感じることも多いです。

自分で考えることができる。そして、違う考えに対してやわらかくある、

って難しいけど大事なことですね。

 

タロットカードには「正義」というカードがあるのですが、これが難しい。

カードの意味としては「正義は正しい」「正義が勝つ」みたいな単純なものですが、

Aさんの正義とBさんの正義が同じではなく、どっちも間違っていない、

ということはままあります。

人対人ではなく、国対国、というふうに考えると、もっとわかりやすいですね。

カードリーディングの際、この正義のカードに詰まってしまうことは多くて、

そのたびに、正義というものが、どれだけ難しいものであるかを

突きつけられるような思いがします。

そして、自分の正義なんてのは危ういものだなあと、ため息がもれたりするのです。

夢のなかで困惑する

今日は日曜ですが、前日までにご予約を頂戴していなかったので、

臨時休業にさせていただきました。

緊急事態宣言が出ましたが、陽性者も亡くなった方もどんどん増えていて、

短期間で収まっていきそうな気配は感じられません。

できるだけの用心をしながらも、気持ちを落とさずに、

ちゃんと寝て、食べて、なるべくほがらかに過ごしたいです。

 

マスク生活も1年以上になるわけですが、夢の中に出てくる人たちは、

誰もマスクをしてないなあ、と不思議に思っていたところ、

昨夜、マスクしてる夢を初めて見ました。

以下、夢の話です。(とてもくだらない内容です)

 

公民館のロビーのようなところに、細長い会議机がいくつか置かれていて、

そこに間隔を空けてマスクをしたスーツ姿の人が数人座っています。

入り口で手のアルコール消毒をし、床の足型に合わせて立って並びます。

(まさにここ1年で常識と化したこと)

 

何の順番を待っているのかというと、占いっぽいものなんです。

(公民館みたいなところに並んで? ワクチンじゃあるまいし)

 

場面が変わって、順番がきたようで折りたたみイスに座ったわたしの前に、

くたびれた黒いトレーナーを着た40代くらいの女性がいて、

その人がいきなりガバッとわたしに抱きついて、のしかかってくるんですよ。

そして、

「あなたの不安も悩みも、悪いモノもみんなわたしが吸い取ってあげるッ!」

と言って、ぎゅうと密着されるんですね。

彼女に悪意はまったくなく、好意でされているのもわかるのだけれど、

それでわたしは安心感に包まれるわけではなく、居心地が悪いばかりで戸惑い、

「そんなことをしてあなたのほうは大丈夫なんですか?」

と尋ねると、

「わたしはいつもこうしているから大丈夫!」とおっしゃる。

 

いやいやいや、大丈夫違うでしょ。

吸い取られるよりは、むしろこっちが吸い込んでしまいそうで怖いんですけどー!

という気持ちになり、

 

これどうすんのーーー?

わたしの不安や悩みや悪いモノって何なんよーーーー?

と困り果てたところで目が覚めました。

その占い師っぽい女性は、まったく見知らぬ人で、

わたしの意識の中でどのようにして造形されたのか、よくわかりません。

 

いつもたくさん夢を見るし、ワケのわからない夢もいっぱいあるわけですが、

目覚めのいい夢と目覚めの悪い夢がありまして、今日は後者のほうでした。

いやあ、実際にあんな占い師の人がいたら、怖いなあ。

ホントによろしくないものを全部吸い取ってもらえるのであれば、

いい香りに包まれて、もっとソフトに、夢見心地の内にしてほしいわー

と思ったのでありました。

「ゆるせる」と「ガマンできる」はちがう

気づいたら5月に入っていました。

世の中的にも心浮き立つゴールデンなウィークのムードはまったくないので、

え、そうやったっけ? という感じです。

 

さすがに緊急事態宣言が出てからはキャンセルもありましたし、

お客さまは少なくなってきました。当然だと思います。

占庭は例年通り粛々と営業していますが、ご予約が入らない日は、

これまた粛々と臨時休業するつもりでいます。

お店やってるので、ぜひいらしてねー! と言う気分にもなりませんし、

お急ぎのお客さまはお受けしていきますので、というスタンスです。

いまのところはそうですが、今後また変わってくるかもしれません。

その際は、このブログやTwitterでお知らせいたしますね。

 

今日も、お客さまと話していて感じたことを書きますね。

結婚を目前に控えた方が口にされる言葉で気になるものがあります。

それは、

「たぶんガマンできると思うんです」

ということ。

結婚が決まりかけているときは、ただハッピーなばかりじゃなく、

ほんとにいいのかな? 大丈夫かな? という不安も押し寄せてきたりします。

人間誰だってカンペキではないので、至らない部分、ちょっと困ったところ、

っていうのはあるものです。

けれども、そこを

「まあお互いさまだし」とか「そこはゆるせるので」とおっしゃる場合は、

あまり心配にはなりません。

「ガマンできなくはない」とか「ガマンしてたら慣れてくるかなと思って」

とおっしゃる場合はとても心配になります。

 

「ゆるせる」というのは許容できるってことですよね。

こういうダメなところもあるけど、まあまあ許容範囲ではある、という。

そこが結婚後、やっぱりゆるせない! になる可能性はゼロではないけれど、

たちまち決裂しそうな感じはしません。

 

ところが「ガマン」というのは「辛抱して受け入れる」ということであって、

つらいけれども耐える、という悲壮な覚悟です。

そんな「つらい」前提の結婚を選ぶなんて、いくらなんでもリスクが高すぎる

と思うし、それでしあわせになれるとは、ちょっと思えないんですよね。

 

「ゆるせる」とか「ガマンできると思う」とかは、そのあたりのことを

全然意識せずに、自然に口に出てきた言葉だと思うんです。

だからこそ、ご自身の無意識の「危機意識」みたいなものが反映しているようにも

感じられるのです。

 

そして「一緒に暮らしてたらだんだん慣れて気にならなくなるんじゃないか」

という希望的観測は裏目に出ることが大半です。

それから、

「結婚するんだってね。おめでとう!」

と言ってもらった時にあんまりうれしく感じない、という場合も要注意です。

周りの人たちに祝福してもらえるしあわせは、一生の内に数度しか味わえない、

とても貴重なものです。

それを「ありがとう!」と喜べないのは、ご自身が、

「わたし的におめでたくはないだろう、これ」と感じてらっしゃるから。

それはもう本能が拒否してる、に近いものがあると思うんですよね。

 

ガマンしながらでも結婚生活を維持していかねばならない、

という時期が、長い間には訪れることがあるかもしれませんが、

これから結婚しようとする人が、ガマンを覚悟して臨むというのとは、

違う話だと思います。

 

しあわせいっぱいの生活なんて夢物語。現実は厳しい。

というのはたしかに事実かもしれないけれど、

そう考えていないと結婚できないわけではないと思うんですよ。

結婚を「ゴール」に据えることで、そこを受け入れないと実現しない、

と自らを追い詰めてしまわれるんじゃないでしょうか。

年齢や、世間体、周りの圧力などに、自分の危機感を鈍らされないように

してほしいです。

誰にも自分らしいしあわせを得る道があるはずだし、

せっかく覚悟を決めるなら、そんな後ろ向きなことではなくて、

もっと前向きな覚悟であってほしいと、思ってしまうのです。

やっぱりしあわせを夢見て結婚はしてほしいですよ。

現実は現実であったとしてもですね、

あきらめ半分でするよりかはそのほうがずっといいと思います。

ギャップ萌えとは

4月半ばになると、鴨川沿いに川床が建ち上がっていきます。

これは数日前の写真でして、実際はもうすでにだいぶ建っています。

それでも例年に比べるとやっぱり少ないですけれどね。

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こんな風に、ゴールデンウイークへ向け、季節は動いているのですが、

新型コロナの感染者数が激増し、大阪はまた緊急事態宣言を 要請したとかで、

今年も昨年のように家にこもって過ごすGWになりそうです。

飲食店への時短要請だけでなく、百貨店や映画館などに休業要請も

されるようですので、京都もそれにならうようなことになれば、

占庭も休業を余儀なくされるのかな、と心づもりはしています。

そのあたりはもう臨機応変にやっていくしかありません。

せっかく寒い冬を辛抱して越えたというのに、春になって一層蔓延するのは、

なんともつらい話です。

けれども、昨年の段階で、少なくとも2年、長ければ10年くらいかかるかも、

みたいな話も出ていましたしね。

未知のウィルスと闘い、共存していくのは並大抵のことではないようです。

 

さりとて、気持ちまで暗くなるのはよろしくありません。

ということで、今日はどうでもいい話題を。

 

ギャップ萌えという言葉、これ誰が作ったのでしょうね。

うまいこと言うなあ~ と感心します。

本来認識していたキャラクタとは違う面を知り、キュンとなる、

ってことですよね。

「予想外」ということが、心にさざ波を立たせるわけです。

しかし、これ、予想外にひどかったら、ギャップがあっても萌えるどころか

気持ちが堕ちてしまうだろうと思うのです。

なので、ギャップがあればよいというものでもないんですよねぇ。

 

しかし、このギャップ萌えっていう単語は、お客さまとの会話にも

よく登場します。

お話をお聴きしていてわたしが感じるのは、

それって、キャラのギャップというよりは、

相手のパーソナリティに対する期待値を超えたかどうかではないの?

ってことなのです。

 

そもそもあまり期待していない部分をスラッと超えてこられると、

おおっ! ってなりますよね。

期待値をグンと超えてこられたことに対する感動とか驚きで。

だけど、冷静になって考えてみると、低く設定されていた期待値を

超えただけなので、一般的に見て、とてもすばらしい!

というのではない場合も多い。

しかしまあ、そういうところから見る目が変わっていったり、

トクベツな縁がありそうな気がしてしまうところが、恋なんですよねー

そこを切り取って「ギャップ萌え」という言葉をつくった人のセンスが

すごいなあと思うわけでありますよ。

子を思う親心はいくつでも同じ

今年は長く桜をたのしめるなあと思っていたのですが、

過ぎ去ってしまえば、ほんのひと時だったなと感じますね。

もう山は新緑の美しい季節に移り替わろうとしています。

 

先日、お子さんを出産されて間もないお客さまとお話しました。

以前からのお客さまなのですが、初めてのお子さんを占ってほしいということで。

きっと思慮深く、家族思いに育たれるのだろうなあ、

と思える命式のお嬢ちゃんのお話をしながら、グリム童話を思い出していました。

王女誕生のお祝いに招かれた、白い魔女たちはこんな気持ちだったのかも、って。

そして、いまからどんなお子さんになり、どのように成長していくのか、

親として、どのように接していくのがよいのか、考えてらっしゃるって、

愛だなあ~~~ と感じて、こちらもほんわかしあわせな気分になりました。

 

その数日後には、初占いの高校生の娘さんにお母さんが付き添いでいらしたり、

高校生の息子さんの進路の相談にお母さんがおいでになったりと、

お子さんを思う親御さんのお客さまが続きました。

占庭には、90代のお客さまが3人いらっしゃるのですが、

その方々は、みなさんいつも子どもさんのことを心配されています。

90代の方のお子さんなので、もう60代、70代です。

それでもやっぱりご心配なんですよね。

乳児から、現役をリタイアされた年配の人まで、親御さんから見れば、

同じ「子ども」なのですね。

 

そうしてみると、子育てには終わりなんてないし、心配の種は尽きません。

いつもお子さんのことを占っていて思うのは、

「一生懸命育ててこられたんですし、お子さんを信じてあげましょうよ」

ということです。

親の愛情という名の「心配」は、親御さん自身の「安心したい」気持ちの表れ、

ということが少なくありません。

ひとまず自分が安心したいために、

・進学してほしい

・結婚してほしい

・結婚相手はマトモ(自分の価値観において)であってほしい

・正社員で働いてほしい

など、リスクの低い堅実な道を選んでほしいと願っておられる人の

なんと多いことでしょうか。

 

そうですよね。

危険は避けてほしい、という気持ちはようくようくわかります。

元気でしあわせでいてほしい、というのは親の共通の悲願ですものね。

けれども、安全と思える道から外れた道を行くことと、不幸になるのは

同じではないですよね。

そう、それもだれもわかっているんです。

けれども、自分の子になると、わかっちゃいるけれど、、、、になってしまう。

 

円満な親子関係は夢です。

特に親にとっては。

そのためには、手や口を出さずに待つ、信じて見守る、心配しすぎない、

が大事なんだなあ、といろんな親子さんを見ていて感じます。

親も自立しないと、子も自立できません。

お互いが依存せず、それでも思いやり合っていけたら、

こんないいことはないなあ、と思います。

子育ては難しいですね。

きっと正解なんてないのだと思います。

自分なりに考えて、向き合うしかありません。

親は親として尊重し、子は子として尊重する、

これができてたら十分なんじゃないかな、と。

まだ現役の子でもあり、親でもあるわたしは、

そのあたりを目指したいなあと思っています。

 

親離れも子離れも、放棄するわけでも疎遠になるわけでもないのですが、

親離れ、子離れっていうと、すぅすぅするような淋しさを感じてしまいます。

けれども、それもお互いの自立のためですしね。

いろんな淋しさを胸に抱きながら生きていくのが人の道なのかもなー

なんてちょっとセンチな気持ちにもなったりします。

 

と書いて、いまの若い人に”センチ”とか”おセンチ”とかわかるのかしら、

と思ってしまいました。

えっと”センチ”ってね、センチメンタルのセンチなのですよ。