京都 四条高倉の占庭から

どこかで手放さなければ一生モン

今年はちゃんと6月末にみな月をいただきまして(二日続けて!)、

よい夏越の祓でありました。

今日から7月で、京都は祇園祭です。

今年も、山鉾巡行はありませんが、祭事は行われます。

四条通も提灯が揚げられ、コンチキチンが流れています。

 

こちらは寺町通 ↓

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こちらは四条通四条河原町の角です) ↓

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今年も巡行はないけれど、山鉾建ては、半数くらいされるそうです。

が、それでも「見には来ないで」という制限付きなのが淋しいことですね。

厄除けちまきも今年はあるようです。

まさに「疫病退散」を願います。

 

今日は、前回の話の中にあった「手放さなければ一生モン」について書きますね。

ちょっとわたしの愚痴も混じってしまうのですが、ご勘弁ください。

こう考えるようになったのは、実は母を見てのことでした。

わたしの母はいま85歳で、ケアハウスで暮らしています。

家から車で10分足らずのところで、週に一度は必ず面会に行きます。

ここはコロナ禍にあっても、家族の面会完全お断り、とはせずに、

制限付きで認めてくれていまして、助かっています。

母とわたしは性格も、ものの考え方も全然違っていて、お互い理解しにくい親子。

険悪な仲ということはないのですが、愛情でしっかりつながっているのか、

というと、そんなことはない関係です。

ケンカするのはしんどいので、揉めないようにやってきた、というところ。

病を得て、半身が不自由になったことでひとり暮らしはできなくなりました。

倉敷のケアハウスに入ったものの、月に一度高速を飛ばして通うのも大変で、

わたしの家の近くのケアハウスへ移ってもらったのです。

そして、身近に世話をするようになって、いろんなことがわかってきました。

母の性格、社会性、対人関係など、そうだったのかー と思うことが、

それはそれはたくさんありました。

案外「女子」だったんだな~ とか。

そして、老いていくということはこういうことなのだな、と教えられました。

あまり折り合いの良くない親の世話をするというのは、楽しいことではありません。

けれども、しなければ知りえなかったことがたくさんあったので、

ただ消耗するのみではなく、よかったとも思っています。

自分が老人になったとき、周りの人にどういうことを言ってはいけないのか、

どういう態度をしていれば周りの人は安心なのか、を知ることができました。

老いていくことの不安や苛立ちは、あって当然です。

それらをどう受け容れるのか、どうあきらめるのか、そこが難しい。

母は楽しい話をすることが、ほぼありません。

自分のつらさや、苦しみ、痛み、苛立ちをわかってほしいので、

そういう話ばかりになってしまうんですね。

もっといたわって、大事にしてもらいたいのです。

いまに続く自分の不幸を振り返り、過去の恨みや怒りを蒸し返します。

それらの話を繰り返し聞いていて、わたしはほんとうに呆れてしまったんですよ。

まだそんなこと言ってるの? って。

 

母親(わたしの祖母)は、姉や弟ばかりをかわいがり、自分はかわいがられなかった

姑や小姑にこんなことを言われた、された、つらかった

夫(離婚してます)はこんなことをした、苦労させられた

 

という話を延々とします。

もはや大昔のことばかり。

どの人も、もう亡くなってから何十年も経っています。

とっくの昔にこの世の人ではなくなった人への恨みをいまだに抱え、

繰り返し巻き返し、怒り、苦しんでいる85歳。

どうしてこうなっちゃったんだろう。

 

たしかに不幸な生い立ちで、つらいことの多い、かわいそうな人生でした。

それは間違いないけれど、その恨みや怒りを持ち続けてきたことで、

不幸から抜け出せなかったんじゃないかとも思ってしまうんですよね。

恨みがましい感情が、自分をも蝕んできたんじゃないか、って。

ここにくるまでに、どこかで、それらを手放すキッカケはなかったのだろうか、

と思わずにいられませんでした。

 

わたしだって、母にもっと愛されたかったし、肯定してもらいたかった。

もっと上の学校へも行かせてほしかったし、子どもらしくいさせてほしかった。

そんな思いはあります。

けれども、恨んではいません。

親は立派な人間とは限りません。

それは自分も親になってよくわかりました。

親によい人間であることを求めすぎてもしょうがない。

誰もが未熟なひとりの人間でしかないのですから。

 

で、話を戻しますとですね、

自分で抱えている恨みや怒り、憎しみなどの感情は、

どこかで手放す意識を持っていないと、それに一生支配されてしまう、

ということなんですよ。

85歳になってなお、憎々しげに怒りをぶつける母を見ていて、

こんな風になりたくないなー と思ったし、恨みや怒りはしぶといな、

とも思いました。

なかなか自然に消えていくとか、いつか忘れる、ってことはないのでしょう。

それならば、この思いは少しずつ手放していこう、と意識しておかないと、

ずーっと持ち続けることになりかねないってことです。

ヘタしたら一生。

いい人になるためとか、デキた人間と思われるためとかじゃなくですね、

自分がラクになるため、美しくあるために少しずつ手放していこう、

と思っておきたいです。

いつかキッカケは訪れるはず。

それを見逃さず、掴んでいかなくちゃ、です。