京都 四条高倉の占庭から

目を見て話さないほうがよい場合も

京都三大祭りのひとつ、葵祭の王朝行列が、本日行われています。

昨日の予定が、雨天延期になって、今日に。

今日は絶好の晴天なのですが、気温もグングン上がっているようなので、

お衣装で歩いてらっしゃる方々は、熱中症に気をつけないといけませんね。

 

先般、タロットレッスンの新規受付は年内くらいで一旦終わりにします、

とお知らせのブログを書きました。

書いたものの、届いてほしい人に届くものだろうか、、、と思っていましたが、

ちゃんと届くものだなあと感心しているところです。

いつか、とか、いずれ、とか思ってらした方が続々と来られています。

早すぎるかと思いましたが、早めにお知らせしてよかったです。

ありがとうございます。

 

さて、表題のお話をいたしますね。

「人の話は目を見て聞きなさい」「目を見て話しなさい」

ってよく言われますよね。

わたしも以前は、そのほうが気持ちが伝わると思ってましたし、

なによりもちゃんと聞いていますよ、誠実に話していますよ、という

意思表示のひとつでもあると考えていました。

考えを変えたのは、以前通っていたヨーガの先生のひとことからでした。

先生と話をしていると、毎回、

「すごい見るね。見すぎはよくないのよ」と苦笑されるのです。

自分では「見すぎ」というのがわからなくて、これでふつうなんだけど、、、、

と困惑していたのですが、それは、視線を合わせすぎというだけでなく、

「理解しようとしすぎ」ということらしいと、だんだんわかってきました。

たしかに意識してみると、話す相手の表情の変化を見逃さないようにと、

ずっと見つめていたのです、わたしってば。

だけど、それがよくないというのが、やはりいまひとつピンとこなくて。

 

しかしながら、

「ひとからの助言はひとまず素直にきいてみる」をモットーにしているので、

それまでよりは、ちょっと視線を外して話してみたりするようにしたのです。

するとわかってきたんですね。

どれだけ自分が「見すぎて」いたのかということが。

そして、ひとつも取りこぼさないように! と見る必要はないのだということも。

 

考えてみたらカンタンなことだったんですよ。

誰かと話をするときに、向かい合って、お互いの目を見ながら真剣に話す、

ってことばかりではないですよね。

それよりか何かをしながら、何気なく話すことのほうが断然多いです。

大切な話をするときだって、一緒に散歩しながらしたほうが、

お互い言いたいことを言えたりもします。

 

そうか、並んで歩くように話す、というのがいいのかも、と気がついたのです。

なにも正面からぶつかるばかりがよいわけではないように、

目を見つめながら話すよりも、一緒の方向を見ながら話すほうがよい場合もある、

ということだったんですね。

もちろん、最初から最後まで目を合わさないということはないですよ。

たぶん、笑い合うときなどは目を合わせてるほうがいいです。

笑うというのは微妙なものなので、キチンと伝わるようにしておかないと。

 

そう心がけるようになってから、ゲストの方も話しやすくなられたように感じます。

人見知りタイプの方は特にそうですね。

あんまり見られすぎるって、そりゃイヤですよねぇ。

なんでそんなことがわからなかったのかしら、といまは思うくらいです。

そしてなによりも、わたし自身がずいぶんとラクになりました。

気づいていなかったけれど、あれは自分の未熟さを補うため、

少しでも感度を上げようと、だいぶムリをしていたのでしょう。

自分は自分でしかないのだし、等身大でやっていくしかない、と

いつも考えていたはずだし、そうしているつもりだったのに・・・・。

ひとからの愛ある助言というのは実にありがたいものですね。